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ひがしむき
子ども苦手でだらしがない(元汚部屋住人)、高齢母でママ友いない、誇れるものが何もない、子どもを産んでちゃんとした人生を歩み始めた、そんな主婦です。

過去ワンオペでぼっちママで余裕がなかった私が知りたかった【お母さんがちょい楽になる】子育てや暮らしの情報を発信しています。
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親の死に目に会えなかった、でも私が後悔していない理由|親の看取り

【親の死に目に会えなかった】でも私が後悔していない理由|親の看取りを経験して

父が亡くなった時、産後4ヶ月だった私は父の死に目に会えませんでした。でも後悔はしていません。親御さんの死に目に会えず後悔しているママに「親の死に目に会う」の本当の意味と、伝えたいことをまとめます。

子育てをしていると子の成長とともに近付いてくるが、親との別れ

悲しいけど避けては通れない道です。

私は多くのママより人生少し先取りwしているので、既に父を看取っています。

私の父は息子が生後4ヶ月の時、亡くなりました。

父が肺がん告知を受けたのは、私のお腹に息子がいる事がわかったころ。

進行性の高い癌だったので、近いうちに別れが訪れることがわかっていました。

告知から約1年、息子が生後4ヶ月の頃に父は実家で亡くなりますが、私は父の死に目に立ち会えていません

真夏であったこと、私の産後の回復が遅かったこと、お盆時期で大渋滞をしていたことなど、様々な理由で駆けつけることができなかったんです。

でも「親の死に目に会えなかった」という後悔はしていません。

自分が親の立場になると、子としての立場を優先できない事がありますよね。

中には、妊娠出産育児で親御さんの死に目に会えなかった自分を悔やみ続けている人もいるのでは。

そんなママの気持ちが楽になればいいなと思い、この記事を書きます。

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「親の死に目に会う」の本当の意味は

「親の死に目に会えない事は親不孝」昔からそう言われますよね。

その言葉通り、親が亡くなる時は何を差し置いても駆けつけることが親孝行だと思う方がいるし、そう信じている方も多いと思います。

でも「親の死に目に会えない事は親不孝」というのは、自分が親より先に亡くなってしまう(つまり親が亡くなる時にもう自分はいず死に目に会えない)ことだと、私はそう教わってきました。

ただ、この解釈にも1つ追記しなくてはならない事があって、

望んだわけでもないのに病になり、親より先に亡くなってしまった人が親不孝かと言うとそういう事ではなく、

結局のところ、”与えられた命の限り生きろよ”って事なんだと解釈しています。

(ちなみに「生きる」というのは、私にとって”自分らしくある”こと。幸せというのは、”自分らしくいられる場所”を見つけることだと考えています。)

親の死に目に会えなかった、でも私が後悔していない理由

ところで、私が父の死に目に会えなかった(最期の瞬間に間に合わなかった)事を後悔していないのは理由があるんです。

  • 順番に亡くなる事がいかに幸せか、わかっているから
  • 最期の瞬間だけが大切なわけじゃないから

こんな感じです。

①順番に亡くなる事がいかに幸せかわかっているから

私の周りには、自ら死を選んだ友人や、事故で亡くなった友人がいます。

そりゃ歳も歳だし人生半世紀も生きていればそういう人の1人ぐらい、確率的にいてもおかしくないよって思う方もいるかも知れませんけど、10代や20代で友人を亡くしているんですね。

私はもともと、どの友人とも深く付き合うタイプではないので、さっきまで連絡を取り合っていたような友人が亡くなったというわけではないんですけども、

社会に出てから年に1回も会わない地元の友人の突然の訃報に驚かされること、多分人より少し多く経験しています。

その時のご両親の悲痛な姿を、私は見ています。

だから、親が先に亡くなる事の幸せさがわかるんです。

でも、たとえ順番通りに亡くなる事が幸せだと言ったって、あまりに早い死は別ですよ。でも父の場合は70歳手前ですから。

孫が産まれて4ヶ月、ちょっと早いなぁとは思いますけどね。

②最期の瞬間だけが大切なわけじゃないから

そして、最期の瞬間だけが大切で意味があるわけじゃないですからね。

病床に伏している親に全く会いに行かず、最期の瞬間に立ち会えたらいいかっていうと、私はそうは思わないんです。

そこに至るまでに、何回だって会いに行けますからね。

そりゃ、最期の最期まで声を掛け続けてあげた方がきっといいに決まっています。

でも当時の私にはそれができなかったし、父もそれをわかっていると思うし、私が「私の父はそれぐらいわかっている」と言えるだけの親子間の信頼関係みたいなものがあります。

もし自分が親の立場だったら、我が子に「何が何でも死に目に立ち会え」なんて思う?

そして、私が命の終わりを迎える親の立場だとして、

離れて精一杯生きている我が子に対し「何が何でも私の死に目に立ち会え」、そんな事思うかなぁと思うんです。

多分私なら、子を心配する

もちろん、最期の瞬間に家族に看取られる事は、私にとって理想です。

でも「慌ててこちらに向かっている最中に事故に合わないか」とか、「小さな孫をこんな時期に連れて移動して孫の体調は大丈夫なのか」とか、そういう事を最期の最期まで心配すると思うんですね(現実的にそれが可能かどうかは別にして、あくまでも思考的な話です)。

親はいつまでも親、ってことですね。

自立し巣立っていった我が子へ、思いが途切れるわけではありませんからね。

そもそも親孝行って…

私は父から”親孝行は、産まれたときにほぼ済ませている”と教わってきました。

そして、子どもが幸せに生きていること自体が親孝行だとも。

本当にどうしようもない父でしたがw、この点だけは凄い良い事を教えてくれたなって誇りに思いますね。

だから、親の死に目に会えたかどうかは些細な事で、

本当に大切なのは、自分の命が終わっても、子どもができることなら幸せに、自分らしくこれからも生きていってくれることだとだと私は思うんです。

そして、私なら…

自分の死に立ち会えずずっと悔いている我が子に、「そんな重い鎖はぐさっと断ち切って明るく生きていってよ!」と思うでしょう。

後悔にとらわれず今を生きて欲しいと、私なら思います。

親の死に目に会えなかった、自分を責めず、自分を許して生きましょう

もしも私が産後の回復が早かったら。

妊娠前だったら。

近くに住んでいたら。

そうだったら、父の最期に立ち会うことができたかも知れません。

でも近くに住んでいたら夫とは出会っていないし、妊娠前だったらそもそも父に私の子を抱かせる事はできませんでしたし、過去は変えられませんからね。考えても仕方がないこと。

そんな事にとらわれている暇があったら、父との楽しい思い出を息子に聞かせてあげた方がよほど供養になると思うんです。

その時できる最善を選んだのであれば、それが正解だし、自分を許してあげられるのは自分だけ。

私は自分を許して生きています。

親の死に目に会えなかった、でも私が後悔していない理由|親の看取りを経験して、さいごに

私は昔、祖父母が亡くなった時に”母は随分と冷静でいられるものだなぁ、自分の親が死んで悲しくないの?”なんて思っていました。

でもいざ自分が人の親になってみると、悲しみにどっぷり浸る暇がないというか、未来を向いていくしかないというか、

うまく言えないんですけど、そういう事なんですよね…

今でも「こんな時、父がいたらなんて言うだろう」と思うこと、「息子とどんな会話をしたんだろう」と思うことが度々あります。

そうやって故人を偲ぶ事こそが、一番の供養だと信じて、今年も父の命日を過ごしました。

この記事がなにかのヒントになれば幸いです!

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